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おくぬ〜の『来た球を打つ!』

スイスと日本で活動する舞台俳優奥野晃士(あきひと)のブログ。

7/25 オンライン授業『歴史で読み解くしずおか学』(更新)

こんにちは、日本は悪天候がつづいてるようですがお変わりないですか?
スイスにきてあっという間に一ヶ月ちょっと、
来たばかりの時は寒くて雨も多かったですが、
最近は晴天が続いてます。




先週からの水曜日7/15と7/22の二日間、
静岡県大の『歴史で読み解くしずおか学』というオンライン授業で
講師をさせていただきます。
7月22日(水)9時から10時半は………
坂本龍馬を斬った男と言われる今井信郎を授業取り上げます。
タイトルは『龍馬暗殺実行犯❓最後の侍 今井信郎と牧之原』と題して
講師をさせていただきます。
※お知らせ
7月22日の授業で不測の事態が発生し
あらためて7月25日(土)16時から、
コンセプトを変更して、一般公開を想定したコンテンツ作りに取り組ませていただくことになりました。
もし参加をご希望される方は
上野雄史研究室までご連絡くださいませ。
お問い合わせ
経営情報学部 上野雄史研究室(主催)
E-mail:ueno@u-shizuoka-ken.ac.jp(上野)




維新前夜、1867年11月15日の夜半
幕末最大のミステリーと言われる近江屋事件で、
土佐藩坂本龍馬は中岡慎太郎とともに何者かによって暗殺されました。
北辰一刀流の達人龍馬をいとも簡単に仕留めた暗殺の実行犯は
当初新撰組の仕業とされていたが、
現在では京都見廻組によって実行されたということが分かっている。
しかし、誰の命によって実行されたかは
長らく謎とされていて、諸説あったが、
今では幕府側の差し金という説が有力であると私は個人的に思っている。
ともあれ日本史上最大の人気者である坂本龍馬は慶応3年11月15日に
悲劇的な最期を遂げるが、






その後、
鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争を徳川軍として転戦。
最後は五稜郭で有名な箱館で投降、江戸に護送され、龍馬暗殺の実行犯ということがわかる。
しかし………
法務大臣は土佐藩上士で龍馬の海援隊を応援していた佐々木高行であるにもかかわらず、
のちに赦免されていて、
静岡県庁で役人もしており、
八丈島発展の為に尽くしている。
彼が打ち首を免れた背後には
西郷隆盛の圧力があったと言われているが
今井と西郷の関係も大変不思議に思う。
明治10年には県の役人を辞めて
西南戦争に従軍している。
内心、鹿児島で寝返って西郷を守ろうとしていたらしいが
行軍中に終戦、その後、牧之原に移住して農業に従事し、
第四代初倉村村長までやっている。
牧之原に移住した幕臣は数あれど
村長までやるなんて、人望があったのだろう。
農業だけでなく榛原高校や湯日小学校の創立にもかかわっており
地域の教育や農業に貢献した人物として
NPOがたちあがって今も顕彰されている。
今井信郎記事10/1静岡新聞


ちなみに現在の今井家のご当主と
坂本龍馬のご子孫とは和解が成立しているそうだ。


以下、前からまほろばの会で今井を顕彰してる郷土史家の塚本昭一先生。
その奥現今井家御当主今井晴彦さん、
一番奥は新番組副隊長だった大草高重の子孫で
牧之原開墾幕臣子孫の会会長の大草省吾さん。


静岡は幕臣が明治時代に多く移り住んだ場所。
牧之原にも徳川慶喜護衛の精鋭隊あらため新番組の隊士の家族だけでなく、
その他多くの幕臣が移り住んで農業に従事したという。
そんな旧幕臣の末裔が多く住む牧之原市も坂部地区でも、
上演させていただきました。
共演は今井の流れを組む榛原高校演劇部部長をつとめ、
今東京で俳優修行中の大石マリアーノ悠司くん。
パーカッションは永吉真弓さんです。




私は武士道というのは、
力をいかにコントロールするかが真髄だと思う。
静岡の徳川幕臣が土に塗れ、荒地を耕し
農業に従事してくれたからこそ
明治の日本の発展はあったのではないかと思う。
もし内乱が起こっていたら西洋列強の介入を許していたかもしれず
現在のような世界が生まれていなかったのではないかと思うのだ。
明日ですが、私か上野先生にご連絡いただけたら
ZOOMでご参加いただけます。


今井信郎の経歴を以下Wikipediaより修正引用して。




今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月20日(1841年12月2日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。
今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。
慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。
慶応4年に始まった戊辰戦争に参加し、衝鋒隊副隊長として佐幕活動を行い、各地を転戦、箱館で新政府軍に投降。
明治3年(1870年)2月、嫌疑をかけられ身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。今井は、龍馬暗殺の詳細を証言、自分は見張り役として参加し手は出していないことを語った。
同年9月、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎後、
明治5年(1872年)1月に赦免された。



今井は静岡を生活の基盤にし、駿府城の跡地を入手、学校の経営を始めた。
農業実習から兵事訓練にいたるまで広範に教授した。
しかし、新政府にかつての履歴を危惧され、学校は後に無償で兵営用地として明け渡された。
明治8年(1875年)、静岡県に出仕し、翌9年、静岡県の所轄下の八丈島へ赴任した。八丈島で教壇に立つ職員に、自らの理想や理念を伝えた。在島期間1年2ヶ月あまりだが、大賀郷小学校、樫立小学校が開設された。『八丈島誌』の「島の教育通史」のなかで、「静岡県吏今井信郎氏が来島、学制の改革を行い、教員を啓蒙し学校教育を進展させた」と、今井の功績を称賛している[1]。
明治11年(1878年)、大井川南方の牧ノ原一帯の開墾地域である旧榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に入植、農耕生活に移行するとともに、キリスト教に帰依した。
島田へのキリスト教伝来は明治20年(1887年)とされており、カナダ人宣教師のF.A.カシディが、島田町長らの歓迎のもと、静岡教会から島田在住の信者宅を訪問したことがその起点となった[2]。今井の洗礼時期は不明だが、日本メソジスト教会監督の平岩愃保から洗礼を受けている[1]。


明治14年(1881年)、信仰生活を送るかたわら、農事改良を推進するため榛原郡農事会会長に就任した。明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、明治34年(1901年)までの20年間、会長職を勤めた。
明治34年(1901年)、学務委員就任、入植地の初倉尋常小学校の教育に関わった。
明治22年(1889年)より3回、村会議員に当選、明治39年(1906年)から3年間、初倉村長を勤めた[1]。


龍馬を殺害した狂気のテロリストのイメージとはかけ離れてますよね。

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